ジャニーズWESTのジュニアの頃
どうも。
先日、ジャニーズWESTについてお話しするとお伝えしていたので、
ジャニーズWESTのジュニアの頃について書きたいと思います。
先日もお書きしたように、
B.A.D.とBOYS(濱田崇裕)と7WESTからなる7人組だということはお伝えしたと思う。
ジュニア時代はどんな子たちだったか気にならないだろうか?
決して、関西ばっかり...と思っていたが、恵まれてはいなかった関西ジュニア時代。
けれど、彼らはデビューを志して、
10年に一度しか関西からはデビューできないのだが、力を合わせてどんな時も諦めなかった。
明星の2014年〜2015年まで彼らの生い立ちからデビューまでのことを綴った一万字インタビューが掲載されたのだが、
たくさんの挫折と葛藤を経験している。
関西は特に入れ替わりが激しく、
たくさんの仲間の旅立ちを見送った。
冬と夏に松竹座や大阪城ホールでライブを行うのだが、
ファンもファンで、
ジャニーズJrって辞めたジュニアのことを公表されないのだが、
まだアイドルの雑誌のレギュラーになっていない子とかはライブで直接知ることになる。
そのため、入れ替わりの激しい関西ジュニアの旅立ったという話を聞き、
涙を流すファンも少なくなかったのだという。
「その為にも俺らがデビューしたるからな!」
と中間淳太は思ったのだという。
実際、濱田崇裕は相方を失った張本人なのだ。もともと関西ジュニア時代、彼には「中田大智」という相方がいて、BOYSとして活動していた。BOYSの最大の売りは、「アクロバットと高い歌唱力とダンス」を売りにしていた。
だが、2011年3月頃から事務所と連絡が取れなくなったのだが、2011年4月に窃盗を起こし逮捕され、後に退社をした。
濵田どうなったかというと、関西ジュニアのグループをたらい回しにされたのだ。主に、veteranというグループで活動をしていたのだが、2010年から2012年まで起きた突然の退所ラッシュにてveteranのメンバーは室龍太、浜中文一しかいなくなってしまったのだが、
その後、kinkanとなにわ皇子という若手のユニットが結成され、kinkanとなにわ皇子、室龍太、浜中文一、7WEST、B.A.D.と関西ジュニアのトップとして活動するようになった。
ちなみに、濱田崇裕は現在も中田大智と連絡を取っているらしく、中田大智は今も濵田のことが好きらしい。
そのことの資料があったので紹介していこう。
「周りがどんどん辞めて言ったので、びっくりしたんですけど、周りの方が動揺してて、濵田やめるってよとかいう噂が流れて。」
どう思っているか聞かれた時。
「意地でもやめないって決めていました。デビュー絶対してやるって。ファンの子にまで気を遣われたんですが、いやいやいら、誰もやめるてゆうてへんし。やる気満々やし。すごくありがたかったし、気を遣わせてしまった。なので、デビューして安心させたろうって。ただ、もしも僕が、BOYSの解散から伝えられることがあるしたら、なくなって気づくものだってあるってことに気づいたんです。正直ユニットじゃなくてもいけるんじゃないか?って思った時期もあったのですが、なくなって気づいた。1人じゃ何にもできひん。それまではミスしても笑って許してくれる人が隣にいた。でも、1人になったら、ミスはただのミスで終わる。だから、もし近すぎてその価値がわかりづらくなってる人がいるなら、改めてどれだけ大切な存在なのかを見つめてほしいし、その気持ちを本人に伝えてほしいと思っています」
と語っている。
7WESTも7WESTで、もともとTOPKidsとして活躍していた、神山智洋、藤井流星、中山優馬の3人に入所したての小瀧望と入所して2年くらいの重岡大毅、新垣佑斗、竹本慎平の4人を加え、Hey!Say!JUMPの関西版である、Hey!Say!7WESTを結成したのだ。
だが、中山優馬がジャニーさんのお気に入りとなってしまった為、東京で活動することが多くなったのだ。
それで、中山優馬with/Hey!Say!7WESTなんてグループの表記に変更したのだ。
Hey!Say!7WESTはデビューの話も持ち込んでいたそうだが、代わりに中島健人、菊池風磨などが所属していたB.I.Shadowに越されてしまったのだ。
デビューは白紙となり、やがて優馬が東京で活動している間に7WESTは6人で活動していたのだ。優馬はやがて脱退。
6人グループで7WESTとなった。
センターは最年長であった重岡大毅がつとめ、リードボーカルにもともと歌唱力とダンスに定評があった神山智洋が務めるようになった。
6人で再出発をしようと決心した頃、
その時のことを4人はこう語っている。
重岡「俺たちどうなるんやろってのがまずあって。今まで6人でやってきたことを4人でして行かなあかんからやっぱ不安もありました。下からは、kinkan、なにわ皇子の足音が聞こえるてゆうか、勢いつけてきてて。なんか焦りがめっちゃありました。 早くデビューしなきゃって」
神山「大変やったし、つらかったんですけど、危機感もあったし、転機でもありましたね。ほんま頑張ろうって全員で意思を固めて。それぞれの役割について初めて話し合ったんです。しげはトークが達者やから喋りでいてほしいとか。小瀧と流星はスタイルもいいし、イケメンやからルックスメンでいってほしいとか。俺は歌とダンスが好きやったんで、そっち系で行きたいなって」
※流星の1万字インタビューをもう一回読み直したのですが、2人のことは書かれておらず、2012年の舞台少年たちの日生劇場公演に出られなかったらやめようと決心した。と書かれていました。多分、2人辞めていったから彼もだらだら続けるもんじゃない決心したんでしょうね。
ーやめたくなったことある?と聞かれて
小瀧「ありますあります!いま2人楽しく過ごしてるだろうから。だから、すごく寂しかったけど、引き止めはしなかったんです。絆は強くなりましたよね。4人で、2人のためにも、俺らは絶対デビューしよう!って約束して。デビューできなかったら、2人も後ろめたい気持ちになっちゃうでしょ?」
こうやって、4人はデビューを志して力を合わせて頑張ってきたのだ。
中間桐山も下積みが10年以上と長いということで、色々あったみたいだ。
もともとB.A.D.は2008年まで仲が良くなかったそうで、楽屋では全く喋らず、テレビの前だけ喋っていたそう。
中間は「楽屋ではほとんど会話もせず、テレビでは淳太くんが淳太くんがいうんで、お前ビジネス淳太くんか!」
って突っ込んでいたそう(笑)
なぜ喋るようになったか、というと、
B.A.D.がごくせんに出て東京で共同生活をしたからだという。今では目を見ただけで今こいつこんなこと思ってるな、とわかるまでになったそう。
中間が辞めたくなった瞬間が二回あったことを皆は、ご存知だろうか?
10年以上ジャニーズをしているから当たり前なのだが、
まず1つ目は、ある関ジャニ∞の舞台で、内博貴の代役で急遽出させてもらったときに妬み嫉みが生まれ、中間だけ孤立するようになったのだと。で、事務所には中間が調子乗ってるみたいな話がつたわったらしく、干されたそうだ。そしたら、ある日、関ジャニ∞の横山から電話かかってきて、「誰にも辞めたいなんて言ってないのに、やめるのは簡単。でも逃げることより続けることの方が大切なんちゃうか?」とかかってきたそう。横山に「お前も悪いやろ」って言われた。確かにこいつらと俺は違うんや、って気持ちもあったし。と語っている。
桐山だけ1万字インタビューがなくて、
抜粋する資料がないのだが、彼は、ごくせんの頃から急に忙しくなったせいか、喘息と難聴を発症してしまったという。
その時のエピソードのことをブログで書いてくださっている方がいらしたんで、それを書いていこうかなあと思う。
いきなり発作が起きて。過労とかが原因らしいんですけど、気管支炎でちっちゃい時は出なかったんですけど、季節の変わり目にたまに出るくらいですけど。
難聴のこと。
関西ジュニアでコンサートをしていた頃に発症したとのこと。 今は治ってるんで大丈夫ですけど、耳もとでヘリが飛んでくる音が聞こえたり、身体中の血が流れてくる音が聞こえたりしたんです。
とのこと。いわゆるさっきも言ったが過労だと。
長くなったが、
入所からデビューを志して10年かけて
掴んだ夢。
10年に一回しかデビューできないと言われていた関西で見事デビューへの切符を掴んだ彼らだが、かなりの挫折を味わっているということはわかっただろうか? この悔しさをバネに関ジャニ∞くらいの全国区のグループに成って欲しいと願う。